たぎった
ので衝動で江志。江蓉や聖蓉に令江の影もするかもしれない。
前振りすっ飛ばしましたが前後足して志摩子の嫉妬ターンも書きたいなあ。ほんのりじんわり、本人も困ってたらおいしい。
世話を焼きたい、が愛情になることって、あると思う?
はい、
あると思います
なんだか教師と生徒のようだ。
志摩子の属性と真面目さのせいで、牧師と信者にさえ見えるかもしれない。
じゃあその逆もあり得るとは思わない?
先生役も先導者も私はごめんだ。
戯れに肩を抱けば志摩子はこちらをちらりと見て、それから身を預けてくる。
聖が同じことをしたら目視確認はしないだろう。蓉子や他の子ならこんなに至近にはならない。不器用な甘えを、微かな笑顔を持って表されるのはとてもうれしい。
逆、とは?
ささやきにも近い声だった。
愛してたけど、ただのだいじ、になったってこと
枝葉の省略はリスキーでたのしい。ぞくぞくする、と言い換えたっていい。
首を動かさずとも志摩子が見える。委ねられた態度にキスはしないそれ以上もしない。それを許されたという前提が作り出す空気がとろりと周囲を停滞させ、懐かしさに少しばかり笑いたくなる。
江利子さまは、紅薔薇さまが大切、なのですね
まあ、聖よりはね
重みを帯びる前に返すのは年長者の小狡さだ。
不満げな雰囲気がわずか一瞬にたちのぼって弾け、志摩子は好きにされる権利を行使して非難に替えた。
そういうところは、似ていると思う。
ごく短い期間、同じ空気を共有した令よりも。
鏡というよりは水面で分かたれ反射してるようだと見ている、聖よりも。